個をみるということ
少し堅苦しいお話になるやもしれませんが、私の普遍的な価値観のひとつをテーマに記事をまとめようと思います。
Twitterを通して覗いてくださる方が多いのもあって、流れてしまう短文では語りつくせないことを、このブログに書くスタイルになってきていますが。
あちらでは流れるが故のメリットもありますし、何よりもリアルタイムでのインプット刺激が多い!
瞬間の感情や思考を切り取ってツイートするSNSなので、発見や自己内省のきっかけをもらえるのが良きですよねぇ。
最近「障害」について言及する呟きを目にする機会が多くありました。
私が普段交流している方は、狭義で発達障害と定義されている症状や状態について言及される方が多い印象がありますが。
広義の解釈だと、身体的な障害をもった方や、知的障害をもった方も発達領域に含まれます。
また精神障害との関連性については、指摘されながらも、研究が追いついていない印象。
専門分野では対処療法や実践的な治療が注目され、行政分野では法整備が追いつかない。
認知されて研究されだしたのが比較的最近なので、学術的な整理が不十分なんですよねぇ…実は。
そんな難しいお話は置いておいて。
私はこの「障害」に対して、少し独自の考えを持っているんですよね。
私が指している「障害」とは、発達障害のみではなく、身体障害も精神障害も含めて「日常生活を送るうえで著しい困難が認められ、社会的支援を必要とする」障害のことです。
私の仕事が関係して、比較的多くの障害を抱えている人と接してきました。
手帳の交付を受けている人も多かったし、手帳申請のための検査を担当する機会もありましたし、家族に手帳をもっている人間もいました。
そのうえで、時間をかけて出来上がった考え・価値観なんですが。
私はこんな病気「だから」という言葉が、嫌いです。
決してみんなと同じように何でもこなせ!と思っている訳ではありません。
巡り合わせによって、多くの人が知らずに過ごす困難に直面してしまった方に対して、言葉では現せない気持ちを持っています。
日常生活の困難を出来るだけ少なくして、より良く楽しく生きるための支援をしたいと、心から思っています。
でも、本人も周りも「だから」を使うと、たいていの場合は「出来ないこと」に目が向いてしまうのです。
ある方が、発達障害ではなく非定型発達と捉えたい、と語っていました。
私が感じているのも、この考えに比較的近いものだと思います。
起こってしまった事実は変えられないけれど、事実を恨んで嘆いているだけでは、楽しくて幸せな生活は手に入らない。
病気「だけど」あれがしたい、これは苦手「だけど」工夫して楽しんでやる!
そういう考えで、障害を抱えたままで人生を楽しんでいる人は、とても輝いていて周りにたくさんの人が集まってきます。
障害の程度に関わらず、受容しているかどうか、が大きな違いだと感じています。
また、私は診断こそ受けていませんが、自分が「健常者」だとは思いません。
そもそも障害者や健常者という言葉自体が好きじゃないんですが…
医療行為を受けるためには、診断が必要になるんです。
その為に診断基準が設けられて、医療点数があり、保険適用の範囲が決まり、病院における費用負担の軽減がされ…
みたいな、行政上のシステムが必要不可欠なので、病気を「認定・診断」して、障害者と健常者を区別する必要があるだけだったりします。
システム先行で診断があるので、医療的な援助を必要とする場合には、自動的に障害者になるんです。
このシステムを批判するつもりはなくて、社会的援助が受けられることによって、日常生活の困難が大きく減少するので、とても大切な構造だと思っています。
とはいえ、完璧なシステムは存在しないので、苦しむ方もいる訳でして。
メリットもデメリットもあるし、選択できる状況の人は納得した上で利用出来たら良いなぁと思っています。
話が大きく逸れてしまいました。
私が自分のことを「普通」じゃないと思う理由を、少しお話しましょうかねぇ。
私は診断こそ受けていないけれど、社会不安障害を抱えています。
この病気は最近認知されだしたもので、まだ知らない人の方が多いのではないかな?
簡単に説明すると、人前が怖くて緊張してしまうとか、お店の人に話しかけられないとか、人の目線が気になって外を歩くのが大変とか。
根本理由は色々あると思いますが、社会人になって対人スキルを要求される場面で、とっても辛い思いをすることで、表面化するケースが多いです。
軽く呟いたことがありますけれど、私の場合も通常レベルにおさまらない緊張感や、お店に1人で入れないなど、特徴的な症状が出現しているので、日常生活に困難を認めるボーダーライン…といったところかなぁ。
仕事ではスイッチが切り替わり困難がないこともあって、自分で対処しながら社会不安障害へのアプローチではなく、私の根本的な問題を見つめなおしている最中です。
うつ病や自律神経失調症と同じように、目に見えなくて周囲の人に理解されにくいタイプの病気だと思いますし、仕事への影響が大きくなるケースが増えているのに、病気を公表することで仕事上の立場を阻害してしまうことが多いので、発見・治療が難しいとも思います。
非定型発達もそうですが、割と新しい病気や障害は理解を得るのが難しいので、まだまだ環境整備が充実していないのが現状です。
うつ病だって社会的に理解されて、配慮されるようになってきたのはここ10年くらいですからね。
さて、本当に今回は話がどんどんと脱線してしまっていますが。
新しく認知された病気は、新しく発見されたのか?
いいえ、違います。昔からあったものが、ようやく診断基準が出来て、区別されるようになっただけです。
医療行為を受ける必要のある人に、援助できるシステムが出来上がっただけなんです。
じゃあそもそも、その「病気」って何なの?
ようやく、私がこの記事で書きたかった部分になってきました。
病気っていうのは、社会的援助を受けやすくするためのシステムを使えるように、専門家によって診断された名前だって思います。
それ以上でも以下でもない。
診断基準があるので、同じ病名の人は似た特徴を持つこともあります。
でも、全てが同じではないし、診断基準は統計をもとに鑑別される症状も多く含まれています。
最初の方に書きましたが、結局は事実をどう受容して、出来ることに目を向けるかには、病名は関係ないんです。
・社交的で誰とでもすぐに打ち解けて話をします
・リーダーシップをとって、物事を動かすことが得意です
・数字に強いので、計算なら任せてください
こういった自己アピールと、
・緊張しやすいので人前で話すのが苦手です
・手順を説明してもらって理解してからじゃないと、作業が出来ません
・車椅子がないと動けないので、段差のない仕事環境が欲しいです
という自己紹介とに、実は大きな違いはありません。
どれもその人の特徴・個性であり、同じ特徴・個性を持った人が多いかどうか、今の社会でメリットが得られやすいかどうか、というポイントが差異を生んでいるだけです。
「○○だからこの仕事は任せられない」
「○○だから役に立たないやつだ」
「○○だから近寄らないでおこう」
これらは、他者がその病名や特徴に対して、勝手に押し付けているイメージです。
「○○だから出来ないのを配慮して」
「○○だから私はこのままでいいんだ」
「○○だから私は不幸なままなんだ」
これらは、自分がその病名や特徴に対して、勝手に押し付けているイメージです。
どちらも幸せに生きることを邪魔しているものです。
他者が勝手に押し付けるのも良くないし、自分が病気に甘えることも良くないんです。
病気は病気、特徴は特徴、個性は個性。
すべて一緒にしては、前向きに進むことは難しくなってしまう。
なので私は、病気や障害を通して相手をみる、ということをしません。
打ち明けられたとしても、それを理由にして態度を変えることはありません。
特徴については、配慮した方がよいポイントを知っていれば、交流する際に意識するかもしれないですが。
特徴と個性を混同して、その特徴というフィルターを掛けてしまっては、その人自身をみることは出来ない。
私のことを厳しいと思う方もおられるでしょう。
そして…その通り、私は厳しいと思います。
ですがフィルターを掛けるということは「差別」だと考える私も、また私なのです。
その人の「個性」に目を向けたうえで、出来ることを考えて増やしていく。
それが本来の援助であり、受容であり、幸せに生きていくということだと、私は思っているんです。
大変に厳しくキツイ物言いを、たくさんしてしまいました。
申し訳ないとも思いますが、私の譲れない価値観であることも、また事実です。
私はこの考えを持ったうえで、出来るだけ俯瞰で物事をみて、そして「中立」の立場で人と接していけたらいいなぁと思っています。
優しくないですけれど、攻撃したり敵に回ったりする意志もありません。
誰もが「個性」を活かして、幸せを増やしていけたら素敵だなぁ。
その為に、一緒に支えあって、分かち合える誰かを増やしていきたい!
私の勝手な想いですが、優しくない本音を記事にしたのも、そういった想いからであること…理解してくださる方がみえたら、とっても嬉しいです。