茶話会しましょ

まったり、ふんわり徒然なるままに

個をみるということ

少し堅苦しいお話になるやもしれませんが、私の普遍的な価値観のひとつをテーマに記事をまとめようと思います。

Twitterを通して覗いてくださる方が多いのもあって、流れてしまう短文では語りつくせないことを、このブログに書くスタイルになってきていますが。

あちらでは流れるが故のメリットもありますし、何よりもリアルタイムでのインプット刺激が多い!

瞬間の感情や思考を切り取ってツイートするSNSなので、発見や自己内省のきっかけをもらえるのが良きですよねぇ。

 

最近「障害」について言及する呟きを目にする機会が多くありました。

私が普段交流している方は、狭義で発達障害と定義されている症状や状態について言及される方が多い印象がありますが。

広義の解釈だと、身体的な障害をもった方や、知的障害をもった方も発達領域に含まれます。

また精神障害との関連性については、指摘されながらも、研究が追いついていない印象。

専門分野では対処療法や実践的な治療が注目され、行政分野では法整備が追いつかない。

認知されて研究されだしたのが比較的最近なので、学術的な整理が不十分なんですよねぇ…実は。

 

そんな難しいお話は置いておいて。

私はこの「障害」に対して、少し独自の考えを持っているんですよね。

私が指している「障害」とは、発達障害のみではなく、身体障害も精神障害も含めて「日常生活を送るうえで著しい困難が認められ、社会的支援を必要とする」障害のことです。

私の仕事が関係して、比較的多くの障害を抱えている人と接してきました。

手帳の交付を受けている人も多かったし、手帳申請のための検査を担当する機会もありましたし、家族に手帳をもっている人間もいました。

そのうえで、時間をかけて出来上がった考え・価値観なんですが。

私はこんな病気「だから」という言葉が、嫌いです。

決してみんなと同じように何でもこなせ!と思っている訳ではありません。

巡り合わせによって、多くの人が知らずに過ごす困難に直面してしまった方に対して、言葉では現せない気持ちを持っています。

日常生活の困難を出来るだけ少なくして、より良く楽しく生きるための支援をしたいと、心から思っています。

でも、本人も周りも「だから」を使うと、たいていの場合は「出来ないこと」に目が向いてしまうのです。

ある方が、発達障害ではなく非定型発達と捉えたい、と語っていました。

私が感じているのも、この考えに比較的近いものだと思います。

起こってしまった事実は変えられないけれど、事実を恨んで嘆いているだけでは、楽しくて幸せな生活は手に入らない。

病気「だけど」あれがしたい、これは苦手「だけど」工夫して楽しんでやる!

そういう考えで、障害を抱えたままで人生を楽しんでいる人は、とても輝いていて周りにたくさんの人が集まってきます。

障害の程度に関わらず、受容しているかどうか、が大きな違いだと感じています。

 

また、私は診断こそ受けていませんが、自分が「健常者」だとは思いません。

そもそも障害者や健常者という言葉自体が好きじゃないんですが…

医療行為を受けるためには、診断が必要になるんです。

その為に診断基準が設けられて、医療点数があり、保険適用の範囲が決まり、病院における費用負担の軽減がされ…

みたいな、行政上のシステムが必要不可欠なので、病気を「認定・診断」して、障害者と健常者を区別する必要があるだけだったりします。

システム先行で診断があるので、医療的な援助を必要とする場合には、自動的に障害者になるんです。

このシステムを批判するつもりはなくて、社会的援助が受けられることによって、日常生活の困難が大きく減少するので、とても大切な構造だと思っています。

とはいえ、完璧なシステムは存在しないので、苦しむ方もいる訳でして。

メリットもデメリットもあるし、選択できる状況の人は納得した上で利用出来たら良いなぁと思っています。

 

話が大きく逸れてしまいました。

私が自分のことを「普通」じゃないと思う理由を、少しお話しましょうかねぇ。

私は診断こそ受けていないけれど、社会不安障害を抱えています。

この病気は最近認知されだしたもので、まだ知らない人の方が多いのではないかな?

簡単に説明すると、人前が怖くて緊張してしまうとか、お店の人に話しかけられないとか、人の目線が気になって外を歩くのが大変とか。

根本理由は色々あると思いますが、社会人になって対人スキルを要求される場面で、とっても辛い思いをすることで、表面化するケースが多いです。

軽く呟いたことがありますけれど、私の場合も通常レベルにおさまらない緊張感や、お店に1人で入れないなど、特徴的な症状が出現しているので、日常生活に困難を認めるボーダーライン…といったところかなぁ。

仕事ではスイッチが切り替わり困難がないこともあって、自分で対処しながら社会不安障害へのアプローチではなく、私の根本的な問題を見つめなおしている最中です。

うつ病自律神経失調症と同じように、目に見えなくて周囲の人に理解されにくいタイプの病気だと思いますし、仕事への影響が大きくなるケースが増えているのに、病気を公表することで仕事上の立場を阻害してしまうことが多いので、発見・治療が難しいとも思います。

非定型発達もそうですが、割と新しい病気や障害は理解を得るのが難しいので、まだまだ環境整備が充実していないのが現状です。

うつ病だって社会的に理解されて、配慮されるようになってきたのはここ10年くらいですからね。

 

さて、本当に今回は話がどんどんと脱線してしまっていますが。

新しく認知された病気は、新しく発見されたのか?

いいえ、違います。昔からあったものが、ようやく診断基準が出来て、区別されるようになっただけです。

医療行為を受ける必要のある人に、援助できるシステムが出来上がっただけなんです。

じゃあそもそも、その「病気」って何なの?

ようやく、私がこの記事で書きたかった部分になってきました。

病気っていうのは、社会的援助を受けやすくするためのシステムを使えるように、専門家によって診断された名前だって思います。

それ以上でも以下でもない。

 

診断基準があるので、同じ病名の人は似た特徴を持つこともあります。

でも、全てが同じではないし、診断基準は統計をもとに鑑別される症状も多く含まれています。

最初の方に書きましたが、結局は事実をどう受容して、出来ることに目を向けるかには、病名は関係ないんです。

・社交的で誰とでもすぐに打ち解けて話をします

・リーダーシップをとって、物事を動かすことが得意です

・数字に強いので、計算なら任せてください

こういった自己アピールと、

・緊張しやすいので人前で話すのが苦手です

・手順を説明してもらって理解してからじゃないと、作業が出来ません

・車椅子がないと動けないので、段差のない仕事環境が欲しいです

という自己紹介とに、実は大きな違いはありません。

どれもその人の特徴・個性であり、同じ特徴・個性を持った人が多いかどうか、今の社会でメリットが得られやすいかどうか、というポイントが差異を生んでいるだけです。

 

「○○だからこの仕事は任せられない」

「○○だから役に立たないやつだ」

「○○だから近寄らないでおこう」

これらは、他者がその病名や特徴に対して、勝手に押し付けているイメージです。

 

「○○だから出来ないのを配慮して」

「○○だから私はこのままでいいんだ」

「○○だから私は不幸なままなんだ」

これらは、自分がその病名や特徴に対して、勝手に押し付けているイメージです。

 

どちらも幸せに生きることを邪魔しているものです。

他者が勝手に押し付けるのも良くないし、自分が病気に甘えることも良くないんです。

病気は病気、特徴は特徴、個性は個性。

すべて一緒にしては、前向きに進むことは難しくなってしまう。

なので私は、病気や障害を通して相手をみる、ということをしません。

打ち明けられたとしても、それを理由にして態度を変えることはありません。

特徴については、配慮した方がよいポイントを知っていれば、交流する際に意識するかもしれないですが。

特徴と個性を混同して、その特徴というフィルターを掛けてしまっては、その人自身をみることは出来ない。

私のことを厳しいと思う方もおられるでしょう。

そして…その通り、私は厳しいと思います。

ですがフィルターを掛けるということは「差別」だと考える私も、また私なのです。

その人の「個性」に目を向けたうえで、出来ることを考えて増やしていく。

それが本来の援助であり、受容であり、幸せに生きていくということだと、私は思っているんです。

 

大変に厳しくキツイ物言いを、たくさんしてしまいました。

申し訳ないとも思いますが、私の譲れない価値観であることも、また事実です。

私はこの考えを持ったうえで、出来るだけ俯瞰で物事をみて、そして「中立」の立場で人と接していけたらいいなぁと思っています。

優しくないですけれど、攻撃したり敵に回ったりする意志もありません。

誰もが「個性」を活かして、幸せを増やしていけたら素敵だなぁ。

その為に、一緒に支えあって、分かち合える誰かを増やしていきたい!

私の勝手な想いですが、優しくない本音を記事にしたのも、そういった想いからであること…理解してくださる方がみえたら、とっても嬉しいです。

自己嫌悪についてのその後

自己嫌悪のその後を記事にまとめようと、ずっと思っていたんですが…ちょっとね、焦らし期間に強制突入していて、思考が働かなくて。

うん…単に言い訳なんですけどね。

恐れずに言うならば、イキたい欲求が強すぎて、疼いて悶えている時間が長すぎて、まともに考える気にならなかった、みたいな。

まだ絶賛焦らし期間なんですが、軽く1回イく許可が出て、少し落ち着いたので…書き始めようかなぁと思います。

 

自己嫌悪について掘り下げた後に、お相手に少々時間をつくってもらいました。

私がグルグルしていることや、お話できるまでに揺れまくって不安定になっていたことは、把握してもらっていたんですけれど。

暴発というか、我慢できずにキツイ言葉をたくさんぶつけてしまっていたので、さすがに多少は言われるかも…なんて考えてもいたんですよ。

実際は怒ることもなく、話を聞いてくれました。

そしてタイミングが悪かったことについては、謝ってくれまでして…申し訳ないと思いながら、私のけじめとして、ひとつ約束すると宣言をしました。

おそらく私の放った言葉の中で、1番彼を削ったであろうフレーズがあって。

その言葉を言わないと誓うことは難しいので、彼に対してはそれを言わない、言ったとしてもあなただけは対象にしないと約束する、と伝えました。

特に意見をもらったわけではないので、お相手がどう捉えたかはわかりませんが。

今回はあまりにもフェアじゃないと思っていたので、私に考えうる最良の手段がこれだったんです。

この約束を伝えるために、時間を取ってもらったと言ってもいいくらいに、私にとって必要な事なんだと考えています。

 

わぁーっと感情のままにぶつけてしまったものの、お話するまでに時間があったので。

私なりに思考の整理をして、キッチリと自分の考えを話せる、冷静な状態での会話となりました。

何に対して不安なのか、どう対処してほしいのか、折り合いのつけ方と、けじめとして伝えたい事。

話す予定でいたことは全て、ちゃんと説明できて、お相手にも伝わったと思います。

解決できない問題や、私とお相手との考え方や価値観が違う部分についても、多少のすり合わせが出来たんじゃないかなぁ。

何度か謝ったんですが「基本的に訳わからないこと言う人じゃないでしょ。それでも言うってことは、何かあるんだろうなと思ってた」と言われました。

そう評価してもらえるのは嬉しいけれど、無用に傷付けてしまったことに対する罪悪感は、簡単には消えません。

なので、無理だとわかっていながらも「叱ってほしいけど、叱ってくれないでしょ?」と聞いてみたんです。

「必要なら叱るけど、ちゃんと自分で気付いてわかってるでしょ?叱る意味ないじゃん」

これは優しさでもあり、厳しさでもあります。

叱られるということは同時に、許されることでもあるからです。

私の気を楽にする為だけには叱ってくれない。

気付いて罪悪感を持って、悩みながらも自分で抜け出す方法を考えたんだから、逃げるのではなく立ち向かおうという暗喩でしょう。

分かっていながら確認した私も甘いんですが、的確にくみ取って厳しくしてくれるところが、まさに私が欲している「強さ」の象徴です。

こう言える人を求めて、ずっと探して、見つからなくて。

私自身がなろうとした時期もあったけれど、なれなくて苦しんでいた。

優しさの中の強さ・厳しさ…私が頼る意味が、これです。

自分で自分の考えを整理して、前を向くための方策を考えて、実行する。

そのプロセスが出来ない訳じゃないけれど、私は途中で甘えが出てしまう。

必要ない逃げを選ぼうとしたとき、単なる甘えにどっぷりと浸かろうとしたとき、軌道修正してくれる存在を欲していたんです。

 

私が私の内面について話すとき、彼はほとんど口を挟みません。

質問という形で問いかければ、多少の返答はくれますが、指摘したり課題を出すようなこともありません。

またあまり褒めることもしないのです。

表出が苦手で、独りで解決することに慣れている私を、よくわかっています。

たまにもっと甘えたいと感じることもあるけれど、それは別の形で補ってもらう方が、私に合ったスタイルでしょう。

少し掘り下げたときに話したんですが、私にも根底に大きな負の感情が眠っています。

いくつかキーワードが出てきてはいますが、蓋を開けるべきかどうか、判断がつかない類のものです。

現状、私は安定している。

突発的に限界がきて、今回は暴発までいったとはいえ、それは信頼できる人に対してオープンにしていることの証でもあるのです。

頼りにしている人には甚大な被害がありましたが、それ以外の他者や生活にたいしての被害は、ほとんど無い状態で解決までもっていきました。

自己の確立がすすんでいるので、蓋を開けたことで全てが崩れてしまうような状態は避けたい。

おそらく、密閉した中で腐ってはいないんでしょうねぇ。

なので開ける必要があるのか?を、真剣に吟味しなくてはならないんですよね。

一緒に確認をしながら、私も理解したうえで、ゆっくりと探っていく。

それを見守ってもらいつつ、甘えが出そうになったら軌道修正してもらう。

このスタイルが基本になるだろうと思われます。

 

半月ほど自己嫌悪の底に沈んでいましたが、結局はこんな解消となりました。

今回の一件で、思っていた以上に甘えたい…頼りきってしまいたいという欲求が消化しきれていない事がわかりました。

その甘えたい欲求を性的な方面で埋めつつ、私が私を認めて、受け止めて、受け入れる。

そう…このブログ内では、まだ記事としてまとめていませんが。

私は他者に認めてもらいたいのではなく、自分に自分を認めてもらいたいんですよねぇ。

この辺りは、もう少し落ち着いて掘り下げる機会が、そのうちやってくると思います。

実はまだ、とっかかりが見つかっただけで、考えてもいないし頼れる人に話してもいないので。

先は長いなぁと思いつつ、全てを自分でやるのではなく、求めていた「優しくて強い」人が味方だという事実を忘れずに、少しずつ進んでいきたいと思います。

特殊な性的嗜好について

さて、ようやく方針が固まったので、性的な方面のお話カテゴリが作れました。

最初は私の趣味・嗜好について、少し説明できれば良いなぁと思います。

自分語りの極みになると思いますので、興味ない方は飛ばしてくださいませ。

 

私はいわゆる「普通のプレイ」よりも、SMと分類されるようなプレイを好みます。

甘くとろけるようなセックスが嫌い…という訳ではありませんけれどね。

基本的に開発が進んでいるので、よほどムード作りが下手だとか、私との呼吸を読む気がないだとかの、セックス以前の問題がある方以外とは、それなりの楽しみ方が可能です。

ちゃんと濡れるし、不満しか残らないようなセックスは少ないのですが。

私自身が溺れてしまい、何度も焦がれて引き寄せられるのは、自分が認めた相手に服従して、支配されて、ドロドロになるようなプレイなんですよね。

 

SNSでよく呟いている妄想は、今のところセルフでの焦らしプレイと、支配・管理される系の妄想が中心です。

この辺りは私の好きなプレイの中核みたいなもので、私の欲求をすべて預けてしまって、翻弄されたいっていう特徴的な嗜好だと思います。

焦らしをするのも、ギリギリまで耐えて気持ちよくなることで、私じゃない誰かの幻影を追い求めている面が強いんじゃないかなぁ、と。

シチュエーションは色々ですが、主となる誰かが居て、私が服従している構図は毎回変わらないんですよね。

今後もこのタイプの妄想は、定期的に登場するんじゃないかなぁ。

 

そして、音声を聴いたり脳イキしたりといった、対面ではなくとも可能なプレイも好きです。

が、誰でも良いとは思わないので、あまりおおっぴらに主張していません。

えっと…ちょっと特殊な事情もあって、現状では特定の方の音声を聴くのと、ある方に許可をもらって脳イキするのがメインになってたりします。

スイッチもたくさんあるし、簡単にイってしまうので、チョロいと言われ、自分でもよく言います。

声でも、文章でも、匂いでも、そして時間指定…今から何時までなら「いいよ」とか…も、チョロいので入ります。

対面だと手を握るとか、視線とか、ハグもキスもだなぁ…そして男性自身を咥えても気持ちよくなり、口に出してもらっても気持ちよくなり。

ちょっとね、気持ちよくならないスイッチを探した方が早いかもしれないと思えてきました。

いっぱい書きましたが、どのスイッチも特定の人物であれば、という前提です。

これを読んだどなたかが実践しようとされても、私が簡単に絶頂する訳ではありません。

本来は自己コントロールが得意なので、ある程度のセオリーを踏まえて、上手な言葉責めをする方なら普通に脳イキが楽しめるレベルです。

私が攻め手に回る場合は、初心者ですがね。

 

実際のセックスとしては、上記の好きなプレイともう少し具体的なプレイが主体になっています。

同じような嗜好の方にされるのであれば、簡単な拘束で被虐スイッチが入ります。

あとは「責め」を忘れずに行為してくださる方であれば、感度の上がった状態を維持しながら本番行為まで雪崩れ込むのがパターンです。

特定の方とは、もう少し本格的なプレイも行っています。

今のところ試した範囲だと…縄酔いと本番に脳イキを合わせた複合プレイや、外での脳イキ関連プレイに、数種類の鞭ですかねぇ。

鞭に関しては本当に最近、初めて一本鞭を経験しました。

被虐性があることはわかっていたんですが、今までは羞恥・調教に特化していたんです。

なので苦痛系のプレイに対しては、適応性が未知でした。

打たれてわかったのは、私は完全なる被虐嗜好だったんだということ。

立った状態で打たれていた際には、短時間だったのに溢れたものが足を伝っているのが自覚できましたし。

這った状態で受けている際は、これまた短時間でしたが、痛いだけではないので逃げることもなく、ひたすら打たれ続けて濡らしていました。

チョロいねと笑われながら「まだ4分だよ?4分しかやってないのにねぇ。今後はどうなっちゃうんだろうね?」と。

この言葉の意味、詳しくは確認していませんが。

痛みで耐えられないとかではなく、4分の間に深くイってしまっていた私に対して、持つのか?という意味だったと思います。

そして、4分以上打たれていたらどうなったかわからないと、私も思いました。

あ、4分は一本鞭の時間で、それ以外も合わせるともう少し長く、鞭を受けていましたよ。

その後の本番行為は、奥を突かれるたびに絶頂してしまうという…ドロドロのグチャグチャで、細かいことは覚えていません。

 

私の被虐嗜好は、おそらく先天的な要素があります。

開発された経緯もあるので、後天的な要素も混ざってはいますがね。

鞭のあとには「蝋燭はどうなんだろうね?面白そうだねぇ」と言われましたが、私もそう思います。

表出が苦手なこともあって、苦痛系のプレイは抑圧している何かを発散する手助けとなる気がしています。

泣けない私が人前で泣けるという現象も含めて、より幸せに生活していくためにプラスに働いてくれるんですよね、きっと。

頼っている方に対しても、見せてもよい部分と、見せると危険が高い部分を、選別して開示しているような感覚があるので。

抑圧という自覚できない範囲の何かを、無理矢理ではなく引きずり出す手段として、苦痛系のプレイはとても有効だと考えています。

痛いだけではなく、そこに快感もあるので尚更に。

問題があるとすれば、私の特殊な性的嗜好がどんどん開かれていってしまうことくらいですからねぇ。

私が依存しすぎることなく、ほかの逃げ場所を確保し続けていれば、メリットの方がはるかに大きいと思います。

 

このカテゴリ最初の文章なので、羅列のような形になってしまいました。

体験談と好きなプレイが混ざり合っていて読みにくいですねぇ。

今後はもう少し、まとまりある内容を記事にしていけたら良いなぁと考えています。

 

恋愛~甘いお話からは程遠い~

え~、先日よりTwitterにリンクを貼り付けております故、SNS経由で足を運んでくださる方がみえるかと。

宣伝をしているわけではないので、わざわざみつけて覗いてくださってありがとうございます!

今回はたまに呟いているんですが、私の少し変な恋愛観についてをテーマにしたいと思います。

 

過去に恋愛経験がない!…ということはありません、一応。

豊富と公言できるような経験値は持ち合わせていませんが、それなりに好きな人がいて、それなりにお付き合いをして、それなりに別れを経験し…という人並みの恋愛はしたことがあります。

が。紆余曲折を経て、現在は恋愛感情に蓋をしている状態なので、およそ5年ほどは恋愛とは無縁の生活を送っています。

それはどういうことなのか?少し説明を加えていければいいかなぁ。

 

蓋をした経過は、以前の記事で少しお話したんですが、あまり覚えていません。

特定の大きなショックがあったというより、何度も同じ失敗を繰り返して、自分を別人にしてしまい、恋愛以外のすべてをぶち壊していく事実に、少しずつ諦めていったというパターンだと思います。

それほどに、私の奥底を預けたいと思える恋愛は、ドロドロしていて美しいものではなく、抱えて生きていきたくなくなる種類の感情だった。

この辺りの詳しい話は、今までに1人にしか伝えていません。

私の友人も、交流している人も、恋愛しているかどうかに関わらず、みなさん恋愛しないという価値観とは別の世界に生きている。

そう感じていて、おそらくは困惑や心配を呼ぶ発言になるだろうと予測しているので、軽く笑い話として伝えるくらいでヘビーな部分はさらけ出さないようにしています。

 

ドロドロは置いておいて、恋愛しないとはどういうことなのか?

単純に恋愛感情に疎い状態にあるのと、そこに踏み込もうとすると自動的にシャッターが降りるような状態です。

少し生々しいお話ですが、私はセックスもしているし、その最中・前後に疑似的な甘い会話やデートもしています。

「恋愛」というシチュエーションが苦手なのではなく、恋愛感情によって私が壊れてしまうことが怖い。

なので一定のラインを踏み越えて入り込まないと分かっていれば、私から「好きだよ」と伝えもするし、相手が「僕もだよ」と返してくれれば自然に笑顔になります。

実際に上記のやり取りをしましたが、拒否反応が出るわけでもなく、ドキドキして恋愛的に「好き」になってしまうこともありませんでした。

逆に明確な何かがない状態でも、私に対しての独占欲が垣間見えたり、私の行動を制限しようと働きかけがあったりすると、シャッターが降りていく感覚があります。

恋愛という感情を中心にして、揺さぶられなくない・入り込まれたくない範囲が明確に存在しているなぁ、と感じています。

 私が興味・関心がないのは恋愛だけなので、LOVEではなくLIKEであれば、とても大切な人はたくさんいます。

愛情がないのではなく、適切な距離を保った関係性でいたい。

この、私にもうまく説明しきれない感覚の違い。

 

いつの間にか蓋をしていたんですが、恋愛に振り回されなくなった頃から、いろいろなことに対して視野が広くなった気がしています。

許せることが増えて、他者の内面を配慮できるようになって、自己の確立がすすんで。

面倒をすべて手放したら、とっても楽になりました。

同じような感覚を持ちながらも恋人を作る方もみえると思いますが。

私は面倒くさがりなので、恋人も欲しくはなくて。

どんどん恋愛から遠ざかった結果…何故か私の感覚を理解する存在ができました。

要らないやって思うと、捕まる存在が現れる不条理…なんてね。

(あ、恋愛対象が見つかったとかではありません)

 

恋愛しないことに付随して、結婚やら出産にも関心がありません。

このテーマも重い話になってしまうので、今は深くは語れないのですが。

私の本質的な問題に関わってくるので、おそらく今後も変化することはないと思われます。

今現在は、私の問題をゆっくりと解消させながら、少しでも幸せに生活していくのが目標なんですが。

悲しい出来事があったし、私の拠り所が不安定だし、環境は変わってないけれど。

不思議と今は楽しい方が多くて、充実しています。

頼っている方にも指摘されて、見透かされているなぁと笑ってしまいました。

 

私は自分で蓋をしていて、開ける意志がないので幸せなんだと思います。

逆に言うなら、開けてしまったら今の私ではなくなって、ドロドロの感情に塗れながら2人で堕ちていく。

そんな終わりに向かっていく関係しか築くことが出来ないんですよね。

それ程に想える相手がみつかったら、蓋が開いてしまうかもしれませんが…理解者とも話しているんですが、魅力的だけど失くしたら耐えられないから、もう開かないよねって共通認識に至りました。

 

以上が、私の変わった恋愛観です。

誰かの恋愛について聞くのはキュンキュンしたり楽しかったりと、普通の反応するので。

私に恋愛感情を向けるのでなければ、こちら方面も大好物ですよ。 

自己嫌悪から抜け出したい

自己嫌悪について、少し語ってみたくなりました。

というのも、私はよく自己嫌悪に陥る人間だからです。

余裕がないまま他者と関わり、結果として相手を傷付けたり疲弊させたりしたのではないか?

そう考えだしてしまうと止まらなくなり、ひたすら「if~あの時ああしていたら…」という禅問答のようなループを繰り返してしまうのです。

先日も大切にしたい方に対して、余裕がない状態で言葉を投げつけてしまい、数時間後から今までの3日以上、延々と自己嫌悪のまま生活しているところです。

なぜそうなってしまうのか?

私自身の思考整理を兼ねて、少し掘り下げようかと思ったのです。

 

私が自己嫌悪のループにハマるには、多少の条件があります。

まず、私が弱っていて冷静な思考回路が働かない状態でいること。

基本的には表出が苦手ではありますが、耐える能力は高くストレスの処理も人並みには可能なため、数日連続で弱っている等の特殊な状態でない限りは、負のループから自力で抜け出します。

ですが弱っていると余裕がなく、視野も狭くなっているので、なかなか発想の転換が出来なくてどんどん悪い方へと考えてしまいやすいのです。

そして2つ目に、自分1人では解決できない問題を抱えていること。

問題は常に抱えているものですが、優先度の高い問題が他者の介入を必要とする…自分は「待ち」の姿勢しかとれない、などの身動きがとれない状況だと、ストレス値が一気に跳ね上がります。

3つ目に、頼ることが苦手な私が、感情をぶつけることのできる相手がいること。

現在、この3つ目の条件を満たしている方がごく少数です。

なのでループにハマるほどの自己嫌悪を抱えることは、あまりありません。

とはいえ少数に入っている方は、私の被害を何度か受けておられる訳でして…もう少しコントロールしたいと思い、努力を重ねている最中です。

全ての条件がそろったうえで、私が我慢できずに行動に移してしまった場合。

その条件下に限り、深い後悔の念を抱えてしまうという…不毛です。

 

私は表出が苦手なこと、我慢をする癖があること、攻撃に対抗しないこと、という特徴があるので、ぶつけるときは急に、一気にぶつける傾向にあります。

わぁっと思っていることを、割と論理的に説明して、何なら相手の弱い部分を突くとか、抉るような切り口で言葉を選んだりします。

かなりタチが悪いです。

 

被害にあった方は、たいていの場合問題の解決に向けた行動を起こしてくださいます。

問題が解決に向かうことで、私は安堵して冷静さを取り戻し、はたと投げてしまった言葉を思い出すのです。

押し寄せる限りない後悔…この時点で相手と対話をして、折り合いがつけばまだしも。

多忙などにより相手と話せない時には、ひたすらグルグルと考えることがやめられなくなります。

この時の私の心境をいくつか。

・もっと別の言い方があったのに、何故わざわざあの言葉を選んだの?

・確かに限界は近かったけど、自分で出来ることがあったかもしれない

・相手は怒ってる?呆れてる?見捨てられたらどうしよう

・謝罪したいけれど、疲弊した相手は私を遠ざけたいのでは?

・合わせる顔がない…どうしよう

このように、ネガティブな方向にしか思考が向かなくなってしまう。

ナーバスになっているので、頭痛や肩こりを併発して暗い顔していることが多いです。

そして、他者の前では泣けない私が、この自己嫌悪の間はとにかくすぐに泣く。

ずっとうるんだ眼をしている、といっても良いかもしれないくらいです。

少し時間をおいてから、ようやく勇気をかき集めて謝罪のための行動をとります。

この状態が相手の都合がつくまで、延々と持続するわけです。

自業自得ですが、小さなミスが増えてどんどん落ち込んでいく。

どこかでこの負のループを断ち切れるようになるのが、今私の目標の1つとなっています。

 

理想としては、限界まで我慢せずもう少し早めに頼れるようになること。

この点については数ヶ月前よりは、ちょっとだけ早く頼ることが出来るようになってきています。

ただし言葉の選び方が悪く、冷静になると相手のことを考えられていなかった自分に気付いて落ち込んでしまう。

なので次の段階として、余裕がなくても自分ではなく誰かを思い遣れるように、私の中での意識改革をすすめていけたら…と思っています。

一連の流れをみると、私は自分の視点でのみ思考しているからです。

この点が改善されることで、もう少し頼ること自体が楽になるのも狙いです。

 

なんだそんなこと、と思われる方もみえるかもしれませんが。

長年しみついている、独りで…誰にも頼らず何とかするのが当たり前、という意識は、簡単には変えられないのです。

同じような悩みをお持ちの方は、一緒に少しずつ改善していけたら良いですね。

このテーマは、The茶話会って感じの内容になった気がしますね。

徒然〜忘れられない光景〜

ずっと忘れられない光景って、誰にでもありますよね。

いろんな感情と結びついて鮮明に思い出す、特別なシーン…

私の場合は、悲しくて泣きそうな気持ちと一緒に思い出す光景と、感動で泣きながら何度も見たくなってしまう光景があります。

 

前者は満員の会場で、無表情で頭を下げる人を見た時。

思い入れのある人が誕生日に、自分たちを愛しているファンに向けて、1人で頭を下げた。

本来は1人で礼をしない…2人でするんですが。

もう1人は許せない、腹立たしい、悲しい、悔しい、嫌だ!が先行して、呼吸を合わせることなく捌けてしまって。

いつもは2人でありがとうのお辞儀をするのに、1人で謝罪の礼をした。

どうしても忘れることが出来ない、悲しい光景でした。

特別な日だった。記念日だった。サプライズを用意してた。

でも、事前に情報が漏れていた。

もう1人はそのことで頭がいっぱいになって、サプライズを仕掛けてお祝いしたかった人に、頭を下げさせてしまった。

誰も得をしない、ただ悲しい。

幸せで笑ってほしかった人が無表情で頭を下げた瞬間は、優しさの詰まった空間が壊れた瞬間の、象徴のようでした。

もう2度と見たくない光景として、今後も忘れない。

心無い人がいたとして、その人に煽られて怒って、激情のままに行動しても、みんなが悲しむ。

優先したいことは何?大切なのは何?どうしたかった?

忘れないことで、思い出すことで、悲しいけど大事なことを優先できる光景です。

 

もう1つはフィギュアスケートの競技プログラムです。

生で観戦していた訳ではなくて、TVで見ていた光景。

2008年のワールド、男子シングル、フリーの最終滑走。

私の理想が、そこにあった。

現在主流の4回転は跳ばなかった。正確にいうのであれば、クリーンな4回転は跳べない状況だった。

でも、全てのエレメンツが、計算されたように調和していた。

お手本のような技に、音楽に合わせた動きに、何よりも選手が自分に勝つ瞬間だった。

SP終えて1位での最終滑走。

2007年も同じだったけど、自分に負けて転倒を重ねる姿を見てた。

スケーティングスキルに定評があって、音楽の解釈や正確な技術で評価の高い選手。

トリノで銅を獲得した実力ある選手。

だけど怪我も多いし、ジャンプが不安定。

メンタルもあまり強くないから、優勝候補とは言われてなかった。

暫定1位の選手は、4回転を着氷して高得点を出してた。

かかるプレッシャーは桁違いだったと思う。

でも、何にも揺らされることなく、自分にできる最高の演技だけを見据えて戦った。

フィギュアスケートをたくさん見ているから、感動する滑りはいっぱいある。

片手じゃ全然足りないし、何度も見返してる。

それでも、あの映像は特別に思える。

優勝した彼…ジェフリーの、現役最後にして最高の演技。

今は振付師として大活躍しているけれど、彼はクレバーで素晴らしいスケーターだと思う。

そんな彼が全力を出して、自分に打ち勝った瞬間。

泣きたいときに、よく見返します。

 

感情って、意識しないとすぐに思い出せなくなっちゃう私だけど。

こうやって自分の特別を増やすことは、忘れないでいたいですね。

疲れたとき、辛いとき、逃げ出したいとき。

そんな時にふと力を抜ける何かとか、前を向ける何か。

大切にしていきたいと思ってます。

感情に蓋をすると

感情は自然に浮かび上がるものだけれど、必ずしも自覚されて、適切に処理されるものじゃない、というお話。

に、なると思います。

曖昧な書き方をしましたが、私自身が体感して知見を元に語れるお話と、知識として収集した情報を元に理論展開するお話がありまして。

感情に蓋をする関連は奥が深く、私も蓋をしている感情はあるのですが、まとまった体系のお話として書ききれる自信がないから、だったりします。

じゃあしっかりとまとまるまで構想を練りなさい、とおっしゃる方もおみえでしょうが…この「蓋をする」という部分に対して、私の中では揺るがない方法論が確立しているようでして。

簡単にいうならば、ある程度自動化がされているので、ドロドロした感情がある(あった)こと、ドロドロは蓋をされて漏れることなく保管されていること、の原因と結果は認知しているけれど、過程は認知できない深層心理に隠れてしまっているのです。

 蓋を開けることでみえてくるものもあるのでしょうが…大きなリスクを伴う行為になるので、必要だと判断する時が来なければ、開けるつもりはないんです。

この後詳しく説明するつもりですが、蓋をしたままで発酵・熟成しているならば、開けずにいた方が生きやすくなる場合もあるので。 

 

さて、前置きが長くなりましたが、ここからこのお話の主題に入っていきたいと思います。

何がしかの現象が起こると、意識が清明である限りは、脳機能に障害がなければ、現象は出来事として私たちの中にインプットされます。

その際、自覚の有る無しは別として、何かしらの感情も生まれます。

食べ物が出てきた→お腹すいた食べたい、またはお腹いっぱいだから不快

音が聴こえる→キレイなメロディだなぁ気持ちいい、またはうるさくて集中途切れたイライラする

簡単で単純な例を挙げましたが、こういった感情の動きに敏感で、色々な刺激に反応しやすい人を感受性豊かな人と言ったりします。

忙しいとか、特定の何かに集中しているとか、疲労で眠気があるとか…心にゆとりがないと、感情は生まれていても自覚することなく、当人も気付かないまま処理される。

これが自動化です。

自覚の有無があまり重要ではない感情は、こうやって処理されていく、と私は考えます。

 

書いていて自分でもまとめるのが難しいなぁと再確認していますけれども。

色々な感情を受け止めるには、心に余裕が必要なんだと思っているわけです。

なので、余裕がない状態で長年過ごしていると、自覚する感情がどんどん少なくなっていく…感受性が低くなっていくのではないか、と。

表出が苦手な人は、周りがよく見えているので感受性の豊かな方が多いのと比較して、自分の感情がわからないと訴える方は、何か別の内面的な感情に対して意識を向けている方が多い。

良し悪しではなく、接しているとそう感じる機会が多い、という私の印象です。

それだけ辛く大きな問題を抱えて、感情を麻痺させるしかなかったんだ…と、私は捉えています。

長年にわたって麻痺していると、どんどん「わからない」が増えていく。

世界と自分がかけ離れていて、自分が居るという実感がなくなっていく。

本当の「あなた」は豊かな感情を持っていて、そこに存在しているのに…苦しいですよね。

この解離した状態が、他者との関係性をつくっていく上で大きな障害となって立ちはだかるのです。

 

ここまでにお話したのは、感情の自動処理と感情を切り離すケースのお話です。

さらに別の方法として、蓋をするケースがあるのです。

感情がドロドロしていて抱えて処理するには辛すぎるけれど、麻痺させて切り離すこともできない。

自己の形成に関わる大きな問題に起因した、自分だけではどうすることもできない問題が多いように見受けますが。

例えば両親との確執があり、否定できないのに消化もできない怒りやかなしみとか。

恋愛に伴う大きな喪失をきっかけにして生まれた、埋めることの不可能な絶望とか。

自分の本質に関わるけれど、他者との関係性が拗れて溢れてしまった感情に、蓋をしてしまう。

蓋をする感覚がわからないという方もみえるかもしれません。

私の場合は、その感情を木の箱または樽につめて密閉して、水深10m以上で川幅30mの流れのはやい川向うに置いてある状態だ、と説明しています。

必死で取りに戻ることは可能だけれど、危険だらけの場所を越えないと触ることすらできない場所。

そこに、密閉して置いておく…それくらい深い深層心理へと、沈めてしまうのです。

こうして蓋をすると、その中身に関連する感情は自覚されにくくなります。

 

蓋をした感情ですが、長年放置することでどうなるのか?

当人も押し込めて放っているのでわからない訳ですが、おそらく2つのパターンが考えられます。

まず、密閉された中でグチャグチャになって腐ってしまっている。

この場合は本人も自覚のないまま、生きにくさを助長する原因になっています。

蓋をしたはずなのに、漏れ出てしまう何かが影響して、本人や周りの人を苦しめてしまっている状態です。

もうひとつが、中身が発酵・熟成されて、本来のドロドロしたものとは別のものへと変化している。

ワインやウイスキーを熟成するように、放置したことで良い結果になるパターンです。

蓋を開けていないので、誰にも中身はわかりませんが。

専門家であれば、当人の生活や他者との関わり方を通して、ある程度予想することが出来るのではないかな?

 

さて、具体的でわかりやすい説明からは遠くなってしまいましたが。

以上の大まかなパターンが、感情に蓋をする関連に対する、私の考えです。

最初に書いた通り、私が実感していることと収集した知識を織り交ぜて展開しました。

これはあくまでも私の考えであり、全ての人に通用するものではない、と思ってもいます。

表出が苦手な人も同様です。

余裕がない状態だと、自分は何なんだろう?どうしてこうなの?誰もわかってくれない…なんてグルグル悩んでしまいがちです。

私の考えを提示することで、誰かの思考整理のヒントになったり、少し落ち着くきっかけになったら。

そんなふわっとした気持ちで、お送りしました。

もう少し踏み込んだお話をする余力は、今はないので…取り敢えずここまで、ということにします。